私の母は嫁いびりされてた。
当時小学1年だった私でもわかるほどに。
当時小学1年だった私でもわかるほどに。
食事捨てるのは当たり前、1日5回家中を掃除させる、祖母と父が寝るまで母は寝ることも許されない。
私は子供ながら、母を助けようと必死だった。
掃除を手伝い、料理を捨てるのを阻止しようと訴えたりした。
掃除を手伝い、料理を捨てるのを阻止しようと訴えたりした。
でも私が母を助けると、祖母は
「子供を味方につけるつもり?」
と余計にいびりがきつくなったので、もうどうしたらよいかわからなくなった。
ある日、母は発作を起こし倒れた。
私は泣きながら119番したが、父に妨害された。
電話があさっての方向にぶっ飛んでた。
父の
「家事をサボるための演技だ!」
というセリフは一生忘れない。
しかしどう見ても演技ではない。
電話を壊されたので、泣きながら近所に凸し、助けをもとめました。
母は死にました。
すぐに救急車を呼んでれば助かったのに!父は
「母の異変に気がつかなかった。」
と言い通してた。
近所の人だって壊れた電話やら泣き叫ぶ子供がいるのに不自然に思わず
(たぶん父や祖母が誤魔化した)父の言葉を信じてこれ以上突っ込んでこなかった。
私はもう父と祖母が鬼にしか見えなかった。
以前から母をいびり倒している姿を見てきているので、人間とすら思えなくなっていた。
もう小1にして相当歪んでたと思う。
そこで…
何年もかけて復讐してやった。
とりあえずとことん問題児になってやった。
今思うと、担任や同級生にはかなり迷惑をかけてしまった。
学校では授業中に逃走、ガラスを割る、発狂。
祖母が青い顔して頭下げる様子は今でも笑える。
もう超有名な問題児に成り下がったから、友達はいないし
心の相談員とやらが何回もたしなめにきたわw
発達障害を疑われ、家庭訪問で父と担任が言い争ってた。
もう大爆笑。
それでも子供を手放すのは世間体が悪いからって意地でも施設送りにはされなかった。
もうスペシャルDQNだったから、教養も糞もない。
中学からは…
似たようなDQNとつるみ、祖母を脅して金を巻き上げてた。
進学なんかせず、DQN仲間にお世話になりながら就職した。
20過ぎたらさっさと縁を切って、遠くの地で細々と暮らしたよ。
今でも独身だが、普通に働いて普通に暮らしてる。
最後に。こんなクソみたいな生き方をしている中でも、母への墓参りは毎月行っていた。
ごめん、母ちゃん。こんな女で。
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